ぼやぼやするブログ

燻りを炎に戻すために

普通の日々を求めて 2

 *↓↓こちらの記事の続きです↓↓

 

ayno-takk.hatenablog.com

 ↑↑

現実の生活でそうやって絶望しつつ過ごしていた一方で、
家に帰れば相変わらずインターネットの中に這入っていた。
そこでは情報の海の中で、流れ押し寄せる人の感情の中で、すっかり摩耗していく。
インターネットばかりやっていると、普通とはなんなのか?わからなくなる。その中には、大学の中の人間関係よりも様々な境遇の人々がいる。
目の前の学校や、親、友人、社会の言うことを素直に信じることができなくなってゆくのだ。
豊富な、無秩序な情報のなかで。
しかしどこにも居場所を見いだせなかった自分を許容する、昔から唯一の場所だった。

そうして自分が過ごしてきた間に、私の同級生たちは家族、学校の教室、部活、趣味、地元、さまざまな場所でめいめいの時間を過ごしてきた。
彼らには戻るべき普通の、いつもの場所があった筈なのだ。

 

授業の話合い中、なぜ関わろうとしないのかと友人に言われた。

それと、顔もわからないネット上の知り合いに言われたことがある。ひとりにならないで、と。

それらの言葉が妙に心の中に残っている。そしてこの二つを聞いた感覚が同じだった。

関わっているという感覚が、知らないふりをしているわけでなく、本当によく理解できなかった。

普通と普通でないのその間に何かがあった。アニメーションのレイヤーが別のような気がした。そこを超えられたとき、私は普通になれる。不登校になる前の私は、そこをうまく超えられなかった。

どうしても生育背景を周囲の人にうまく言い出せなかった私は、どこまで自分の置かれていた環境が周囲と違うのか、分からなかった。私がどこまで普通で、どこから歪んでいるのか、個性なのか。

 

不登校の間心理学から離れ、思考のまとまりもなく本を読み散らかした。頭の中が混沌のまま、書物のなかの言葉によって混沌からなにかを掬い出したかった。

哲学、思想、宗教、多様な学問…人の歩んできた道のりのほんの少ししか見られなかった。しかし分かることがあった。この今の社会はそのなかのほんの一部なのだ、ということだ。

今の社会での普通とは、とても不確かなものだと感じるようになった。

普通でないと悩んでいることは、実は間違ってない、と、一人で本を読みながらそうやって言い聞かせていたように思う。

普通の日々を求めて 2

 *↓↓こちらの記事の続きです↓↓

 

ayno-takk.hatenablog.com

 ↑↑

現実の生活でそうやって絶望しつつ過ごしていた一方で、
家に帰れば相変わらずインターネットの中に這入っていた。
そこでは情報の海の中で、流れ押し寄せる人の感情の中で、すっかり摩耗していく。
インターネットばかりやっていると、普通とはなんなのか?わからなくなる。その中には、大学の中の人間関係よりも様々な境遇の人々がいる。
目の前の学校や、親、友人、社会の言うことを素直に信じることができなくなってゆくのだ。
豊富な、無秩序な情報のなかで。
しかしどこにも居場所を見いだせなかった自分を許容する、昔から唯一の場所だった。

そうして自分が過ごしてきた間に、私の同級生たちは家族、学校の教室、部活、趣味、地元、さまざまな場所でめいめいの時間を過ごしてきた。
彼らには戻るべき普通の、いつもの場所があった筈なのだ。

 

授業の話合い中、なぜ関わろうとしないのかと友人に言われた。

それと、顔もわからないネット上の知り合いに言われたことがある。ひとりにならないで、と。

それらの言葉が妙に心の中に残っている。そしてこの二つを聞いた感覚が同じだった。

関わっているという感覚が、知らないふりをしているわけでなく、本当によく理解できなかった。

普通と普通でないのその間に何かがあった。アニメーションのレイヤーが別のような気がした。そこを超えられたとき、私は普通になれる。不登校になる前の私は、そこをうまく超えられなかった。

どうしても生育背景を周囲の人にうまく言い出せなかった私は、どこまで自分の置かれていた環境が周囲と違うのか、分からなかった。私がどこまで普通で、どこから歪んでいるのか、個性なのか。

 

不登校の間心理学から離れ、思考のまとまりもなく本を読み散らかした。頭の中が混沌のまま、書物のなかの言葉によって混沌からなにかを掬い出したかった。

哲学、思想、宗教、多様な学問…人の歩んできた道のりのほんの少ししか見られなかった。しかし分かることがあった。この今の社会はそのなかのほんの一部なのだ、ということだ。

今の社会での普通とは、とても不確かなものだと感じるようになった。

普通でないと悩んでいることは、実は間違ってない、と、一人で本を読みながらそうやって言い聞かせていたように思う。

普通の日々を求めて 1

普通が良かった。
元から感性が普通であったならば私は否定されることも私を否定し続けることもなかった。
もっと普通のものがいい。普通に学校で友達を作り、普通のJポップを聴き、普通の洋服を好み、普通に週末は友達と遊びに行く。
周りの同じ子供の誰もが持っている感性を私の中に入れ込み、誰にも迎え入れられ、その中で生きたいとねがった。
心理学科に入学したのは、そんな学校時代の違和感を拭い去りたかったのかもしれない。同じ年代の普通の人々の感性を理解できるのかもしれない、と思っていた。
どうしても心の底から馴染めない。不可解からくる気持ち悪さがあるが、その不快感を向ける先には何も悪くない人々がただ普通に過ごしている。そうした思考が頭の中を駆け巡る。
思春期特有の自己嫌悪にさいなまれ、疲弊した精神が自然と心理学科を選んだ。その根底には自分はただ、普通でありたかったという飢えがあったと思う。

教員養成系の心理学科に入ってからというもの、「自分の小学校時代を思い出してください」と言われる場面、もちろんわたしたちが教員になるという前提で組まれた授業が多かった。楽しく話し合いをする教室の雰囲気に飲み込まれ、また不快感を感じる。
また、心理学の授業においても、自分の実感に伴なわない知識を教え込まれることが続いた。
同じ学科の人たちは、その知識を素直に受け取った。また、教員志望で入った人々は、その知識を覚えるというよりかは、授業の単位を取ることに重きを置いていた。授業には出席せずに人のノートを見せてもらい、テストを乗り切り単位を取る人もいた。(そのような人に限って優秀な成績を修めたりする)
わたしはどちらもできずに、授業に出席しても頭に靄のかかったような状態で、テストの点も単位を落とす寸前だった。
高校時代、成績がいいと言われていた。しかし自分の実感に伴なわない知識を頭に詰め込むことが、大学受験の時点でとても難しく感じていた。もう限界だった。
科学的に実証された心理法則、歴史上の顔も合わせたことのない誰かの理論など私にはなんの関係もなかった。
同級生の世間話にもついてゆけない、そもそも自分の人生とは何の関係もない。彼らは普通の日常を送っているだけだが、自分とは何の関わりもなかった。
何の関係もなかった。

普通らしくバイトやサークルもやったが、いずれも人間関係をうまく構築できずにやめてしまった。
普通の大学生活を送ろうとすればするほど、普通の人々への劣等感が募りに募った。
それでいて学業すら普通に、いつも通りについてゆくことすらできなくなった私には何の価値がある?
学業ができないことにより人生のレールから外れてしまうことへの静かな絶望感すらも抱いていた。

インターネット依存、時間の空費

私は、小学校の2年生にパソコンを使い始めた。父親から使い方を教えられて、最初はただソリティアスパイダーソリティアピンボールなどオフラインで使っていた。

インターネットの使い方は教えられていなかったが、父親の見よう見まねで隠れて検索をしたのが始まり。

3年生あたりでクラスメイトと喋れなくなったことと、親子関係に対する不信感が募っていたのでネットは格好の逃避先となった。

 

そこからは、情報の海に身を任せていった。すっかりネット中毒になってしまった。当時は親も止めなかったので、ひどいときは深夜の4時ごろまで2ちゃんねるを眺めていたときもある。気が付いたら専用ブラウザまでダウンロードしていた。学校や家という場所などどうでもよかったのだと思う。学校に行くという作業、家に帰るという作業でしかなく、そこに愛着など微細もない。心理学的な防衛機制だったのだろうか。逃避だったのだろうか。あの頃の自分にはそんなことはどうでもよく、インターネットがすべてだった。

空虚に時間を消費する日々。

 

自分は頭の中で言葉がうまく組み立てられないことでずっと悩んでいたのだけれど、このネット漬けの生活に原因があったのだろうと思う。

思考の断片が目に次々と入り込むのが、インターネットの掲示板である。そこにあるのは一連の文章ではなく、ほとんどがそれぞれ見知らぬ誰かの放った一文。全体としては何の論理性も持たない。

ネットをしていると専門的な知識や語彙などの知識の散らばりを集めていくことになる。wikipediaネットスラング、雑学系の知識は手に入る。情報をジャンクフードのように食い漁る。

情報を集めているとそれだけで頭が良いと思いこんでしまう。もともと人とうまくコミュニケーションが取れなかったのだが。自分の考えなど人には理解できまいと、傲慢な理由付けをしていたところも恥ずかしながらある。

しかし実はそれらの情報が頭の中で散らかり思考を阻害していたのだ。いくら知識をインプットしてもアウトプットの場が足りないとかえって思考が整理できなくなるのだ。そしてさらに言葉に詰まり、押し黙る。意見がまとまるころにはもう会話の場ではなくなっている。

自分の意志がないようによく感じてきたが、おおむねこれが原因だろう。思考はことばで行われるものなのだから。

外に開かれるために、私は私を組み立て直さないといけない。空虚な時間から人との繋がりを作る時間へと抜け出そうと今もがいている。

作りました。

何を書くか、誰のために書くか、さっぱりわかりません。

文章の書き方も、自分の中で固まっていません。

しかし、書かないと、何か発信していかないと、自分が壊れてしまう気がしてならないのです。

とても生きづらいです。

自分の思考を少しでも整理したいと思います。

ひとまずはそのために書きます。