ぼやぼやするブログ

燻りを炎に戻すために

仕事をやっていて今更思い出したこと

放課後等デイサービスというところで働いている。

障害を持った子供を預かる場所で、疾患はさまざまあるけれど私の職場では大体言葉での会話ができない。はいかいいえで答える質問をすれば意思表示をかろうじてしてくれる(内容をわかっていないこともある)。

子供の中に、座ることまでは一人でできて、立つのは助けが必要な子がいる。その子は椅子に座っていると年齢より幼いが健常児に見える。

発話はというと、笑い声がたまに聴けるだけでまったく喋らない。おやつを食べる前の挨拶をうながしてもはにかみながらうつむく。

両親や学校の先生の前ではしっかりと言葉を話すらしいから、恥ずかしがっているのか、と思う。理由はその子にしかわからない。

わたしは昨日もその子と帰りの準備をして、さようならといっても相変わらずニコリと返されるだけで、なにもなかったのだが、靴を履く手伝いをしていて靴のテープを留めただけでわたしが「できるじゃん、すごい」とやたらほめていたらテープをまた剥がされてしまった時があった。

あの時は反抗心があったに違いない。

靴のテープを剥がされた出来事があって、私も家や学校でほとんど喋れない時があったのを思い出した。

同級生の男子にからかわれたときや、父親に怒鳴られたとき、蛇に睨まれた蛙のように口を引き結んで、体はちぢこめ、しかし心の中には確実に無力感とか怒りとか恥ずかしさとか、いろいろなものが堆積している。

堆積したものを溶かして流せるような居場所があの時は欲しかったと今になって思う。し、自分がその居場所の一つになれたらという思いもある。

私が他のスタッフやいろいろな人に優しいといわれるのは、こういう意識が裏にあるからで、ほんとうに過去の些細な事にずっと縛られていて、それを取ったらなんにもない。

堂々と言える資格も自分らしい進路もこれといって選べなかった。

優しいといわれると嬉しいけど、本当は自由になりたいのになと素直に喜べない。