海にいきたい

しかし人生は続く

自分なりに外部に開かれた態度で接していると思っていたのだけれど、

実は自分の内にこもりながらもそのくせ外部に答えを求めようとしていた。

避けては通れない道だったのかもしれない。でも、今の私には許していられない。

 

今、自分の時間の使い方がとても恐ろしく感じている。

ひどく退屈。怠惰。言葉の羅列をただただ眺めているに過ぎない。

勉強だって、それが自分の血肉になっているという感覚もなく、それでその行為に意味を与えられないでいる。

今を充実させるためのもの?将来を達成するためのもの?

自分から動かなければ言葉に意味など与えられないだろうに。

 

急げ。私の頭の中が瓦礫と空洞で構成された何かに成り下がらないように。

これからのあらゆる言語活動が無駄な時間にならないように。

大学に来てから感じたすべての喜び、悲しさ、腹立たしさ、虚しさ、それらと同じように、行動の結果が分かるのはいずれ行く場所においてである。そして、それが良かったのか、悪かったのかを決めるのは私の思いである。

私自身がこれ以上苦しまないように、これ以上に幸福だと思う瞬間が増えますよう。

その場しのぎはもうやめよう。

 
私が何か別のことに気を散らしているあいだに、一人遊びをしている間に、時はきてしまった。いや、まだ来ていないとしても時が今にも迫ってくるという様相です。
私は何を見ても何を聞いても言葉の堂々巡りにしか思えず、その理由は、きっと、
自分の言葉の間隙を自分の言葉だけで埋めつくして、一人よがりでやっていこうという白々しさに他ならなかったのだなぁと
今から一年前までを振り返るのです。
そしてそれは私自身の内側のみならず、数多くの、複数の人同士の集団の中でも当たり前に起こっていて、
それは、私がそうだったように、核心の問題から気をそらすために口をうごかして言葉を滑らせているにすぎなくて、そのように感情をぶつけ合えばその場しのぎで時間とひきかえに気分をすっとさせているのだと自分を納得させることができる。
私は、少なくとも私は、その場しのぎが、嫌になってしまったのです。
その場しのぎをしていないか、というのは常に自分に問い続けていたいと、そのように思います。

7月8日 つたない過去の振り返りしか

自分の世界からは物語が抜け落ちているな、

iPhoneに入っていた大学時代の写真をかき集めて見返して、そんな感覚に陥った。

たくさんの方向に興味が拡散し、自分で自分を振り回していた。まるで誰かに目を覆い隠されたまま車のアクセルを踏み続けて着いたのがここだったみたいで恐ろしかった。それで、入学してからもそのまま日々を過ごしていた。

自分がおかしいのを隠したり少し人を信頼して言ってみようとしながら、幸せな瞬間もあったり理不尽さを感じたりしながら。

みんなからは普通に見えていただろうか。「少し変わっている」くらいで済んだだろうか。

きっとそのふるまいは大学生に見合わなかっただろうし、

きっと誰も感じ得ない無秩序な日々が愛おしく思う。

3月18日 未来が欲しいというはなし

やはり実存は本質に先立ってしまうのかと思った。

一年半前まで無理をして築いてきた人から自分への信頼という資産を切り崩して、毎日甘えに甘えて生きてきた。だらだらと毎日を消費するだけ。淡い楽しみだけ

が自分の努力なしに知人やイベントからもたらされ、ただ素直にそれを受けとる。

 

それでも降りなければいつか社会に出て折れると考えていた。大学を出たとしても永遠に続く適合への努力から、大学を出たとしてどこで役立つかわからない知識から、一旦距離を置いた。それまでの人生のプロセスでしっかり自分自身がここにいる意味を見出すことができていなかった。それゆえ他人からの理解も、ここにいる意味を理解していない自分がいくら考えを話したって得られる理解は不十分なのだ。

瞬間瞬間に自分が持った言葉にはしづらい微細な感覚を語ろうとすることで、生きづらさは増す。あまりに長期的な視線で自分の感覚を見据え、総括することは非常に困難である。学校に居る意味も、未来への夢・目標も、その日暮らしでなんとか死なずに生きてきた私にとってはどうしてそのようなことが記述できるのかよくわからなかった。

自分には未来を見通す力が欠けている、と考えている。その力は日頃の訓練で身につくものなのだろう。しかし一度自分でそれを断ち切ってしまった。(断ち切ったとはいってもだいぶぼやけていたが)今は差し詰め推進力が分散してしまっている状態なのだろう。

 

今の腰が重く怠惰な状態はとても褒められたものではなく、前の自分が無理をしているとはいえども意外と頑張っていたというのを思い出して、少しかなしくなった。

かつて信頼を築いた先にいた人たちの顔だって、けして忘れたわけではない。

もう一度、でも少し生まれ直して、良い未来の方向に自分を進めたい。

対策を、考えないといけない。

3月5日

息をするように駅に待ち構える就活塾のティッシュ配りを否定し続けている。

なにが人間理解だろう。嫌なものを見るのをただ避けているだけだ。

そうやって、人間関係に少しの染みを見出すとすぐ避けて遠巻きに眺めるよう徹していたのだ。

優しいのではなく、自分が人と接しなくてよいという状況に甘えているだけだ。人とまともに接しないことで心に余裕のある私が優しい態度をとることができるのは当たり前のことだ。

しかし仕事を始めたらそれは違うのだ。なにか困難が起これば同僚とコミュニケーションをとり向き合って行かなければいけないのだ。そこでは、チームで問題解決をするうえで、傍観者として居ることはできなくなる。

就職活動は主体性を重視する。自らが会社に己を人材として売り込む必要がある。

私は、自分の人生すら傍観者として眺めていた。人から優しいと呼ばれて、それを隠れ蓑にしながら生きていたんだ。自分と、人と、向き合う。たった今、それに直面している。

 

時間管理があまりにも甘い。と危惧はしていたもののオープンセミナーに遅れてしまったことでとうとう自分自身への失望感は増し、就活についてやっていくぞという気持ちがだいぶ薄れてしまったような気がする。とても痛い目にあっている。

今日は仕方ないので書店で労働法について就活生向けに書いている本を読んだり、就職後の自分をおぼろげに想像しながらファッション誌を眺めたり自分にしてはめずらしく心理学の雑誌を読んでいた。

就職後の自分はしっかり人とやっていけてるだろうか?勉強しているか?他人に攻撃的になってしまうくらい疲弊していないか?しっかり時間管理はできているか?

未来の自分のことばかり頭に浮かんでしまう。今の自分には今できることをしっかりこなしてほしい。不登校までして、大学の成績も振るわない自分はかなり窮地に立っている。加えて心理学の基礎もなっていないのに卒論は待ちわびているし、教免のための実習もまだ行けていない状況なのだ。最善をつくしてせめてこれからは楽しく生きていきたい。

 

閉じ篭っていた私が21年のなかで身に着けてきた技術や社会経験なんてほとんどない。

自己分析の結果を眺めて、自分の就きたい業種はそこそこ適性があり、自分の適性に一番マッチしていたのはコピーライターで、コピーライターってどうすればいいの?センス磨けばいいの?という状態である。

バックパッカーとかボランティアくらい経験していてもよかった。簿記や社労士、語学などの資格をとっておけばよかった。などと後悔してしまう。当時の自分にはできなかったことを強いてしまう。でも、それは抑えた方がいい感情なのだ。過去の自分は何も悪くないから、責めないようにする。

生存報告が早すぎる

帰ってきてスーツを着たままこの記事を書き始めた。

さくじつtwitterのアカウントを消したきりんです。

就職活動。

あらゆるチラシ・ポスター・電車の吊り下げ広告が他人事ではないような気がしてくるし、駅に近いビルや菓子メーカーの工場・飲食店など灰色の建物の中に人がいるんだなぁといちいち透視するような気分になる。

なにより電車から乗り降りする人の黒い波の一部になってしまうのかもしれない、というのはなかなか今の私には信じがたい。自分もスーツなのだけれど、まだ波の一部とは違う。

長期のキャリアプランを作成した。某就業支援施設にある自己分析ツールの中の一つで20代から50代、60代までの欄があり、それぞれいくつかのボタンを押せば簡単に欄を埋められ、簡単に人生目標を立てられる。学校に居る間感じてきた将来への不安感などなにも関係なく、あまり深く考えないようにボタンを押すだけで埋まっていく表は滑稽に見えた。一方すぐ路頭に迷ってしまう私にとっては長期的な計画を仮にでも作ることができてありがたさを感じた。形から入ることも大事だ。

死にたいと言っていた自分は、20歳の今60代までのキャリアプランを立てている。あのころの切実な思いは、時間に押し流してしまうのだろうか。

 

ああ、明日は誕生日です。