ぼやぼやするブログ

燻りを炎に戻すために

何にもしたくない。

 何にもしたくなくない!?

仕事では波風立てないようにしていれば優しい人だってとりあえず褒めそやされて、

きっと裏では良くわからん人扱いだろうと思う。

そんなことだからいっそう何もしたくなくなる。

 

自分が表現できないことにものすごく腹が立ってる。

第一、自分だって、自分のこと良くわからないから表現だってできない。

ぼやくことで少しでも自分の言葉を開放することができたらいい。

このままじゃ今まで生き延びてきた意味が分からなくて悲しすぎる。

小学校のころほとんど喋らない子だった話を職場の先輩にしたら、わりと大丈夫。軽く受け流してくれたのがかえって認められた気持ちがした。

一人で抱えていた時はどうしたらよいか分からなかったのに、あっけなく手放せてしまったのは不思議な感覚だった。

ああ、勉強しなきゃ。色彩検定と英語とプログラミングと…読みたい本も…きりがない。

 

最近のニュースで悲しくなったけれど、三連休のうちに無性に食べたくなったサーターアンダギーを揚げたいと思います。

 

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仕事中に先輩からもらったうれしいおみやげ

思ったことだけ

友達としての感情が恋愛感情に発展するなんてことは散々あったけど、最初からこの人は恋愛感情までいかないというのは直感でわかる。その線引きってなんだろう。

顔かな。

正しく言うと顔から推測できる性格なんだろうな。

顔だけではもちろん判断しないから、そのぶん友達としての期間が必要なんだろうな。

うん。

 

Twitterはあまり見ないような方向にしたい。思考の過程で反応をもらうと反応をされた方に引っ張られてしまう。

きっと日記ぐらいで丁度いい。

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これは昨日食べたお弁当です

仕事をやっていて今更思い出したこと

放課後等デイサービスというところで働いている。

障害を持った子供を預かる場所で、疾患はさまざまあるけれど私の職場では大体言葉での会話ができない。はいかいいえで答える質問をすれば意思表示をかろうじてしてくれる(内容をわかっていないこともある)。

子供の中に、座ることまでは一人でできて、立つのは助けが必要な子がいる。その子は椅子に座っていると年齢より幼いが健常児に見える。

発話はというと、笑い声がたまに聴けるだけでまったく喋らない。おやつを食べる前の挨拶をうながしてもはにかみながらうつむく。

両親や学校の先生の前ではしっかりと言葉を話すらしいから、恥ずかしがっているのか、と思う。理由はその子にしかわからない。

わたしは昨日もその子と帰りの準備をして、さようならといっても相変わらずニコリと返されるだけで、なにもなかったのだが、靴を履く手伝いをしていて靴のテープを留めただけでわたしが「できるじゃん、すごい」とやたらほめていたらテープをまた剥がされてしまった時があった。

あの時は反抗心があったに違いない。

靴のテープを剥がされた出来事があって、私も家や学校でほとんど喋れない時があったのを思い出した。

同級生の男子にからかわれたときや、父親に怒鳴られたとき、蛇に睨まれた蛙のように口を引き結んで、体はちぢこめ、しかし心の中には確実に無力感とか怒りとか恥ずかしさとか、いろいろなものが堆積している。

堆積したものを溶かして流せるような居場所があの時は欲しかったと今になって思う。し、自分がその居場所の一つになれたらという思いもある。

私が他のスタッフやいろいろな人に優しいといわれるのは、こういう意識が裏にあるからで、ほんとうに過去の些細な事にずっと縛られていて、それを取ったらなんにもない。

堂々と言える資格も自分らしい進路もこれといって選べなかった。

優しいといわれると嬉しいけど、本当は自由になりたいのになと素直に喜べない。

朝に勉強をしていると、前日あったいいことが思い出されてきて、幸福感を持てる。

清々しくポジティブな気持ちで迎える日々は久しぶりだと思う。

重い気分の時はすっかり自分が不幸のままでいるにちがいないと思い込んでしまったが、幸福な日々を私は忘れていただけ。自分のやりたくないことはしなくていいし、自分で何がしたいか決められる力がある。

余裕を持つのがいかに大事かというのが身に染みて分かります。それから、私と同じように心に余裕があって自分を大事にしている人、悪いことは悪いとはっきり言ってくれる人、助言をしてくれる人が近くにいることも。

何を返していったらいいだろうと思います。

仕事の様々な業務、趣味、など、すべてこなしうる者も確かにいるのだろう。

しかし、それができない者に向かってけなし、能力をつけさせようと鞭打つのは、明らかに間違っている。軽蔑の対象にしてはいけない。

誰がハードルを上げているのか、自覚のある人はどれ程いるんだろう。

できないことばかりに目を向けられて、なんでもできるように苦手なことを無理にしようと腐心している人がどれ程いるんだろう。

でも差別的な心は自分の中にも確実にあって、直視するのに耐えられなかった。

そのような優劣をすぐにつけたがる心性ごと、心中したかったのだ。死にたい気持ちで頭がいっぱいになるときは必ずそういう部分もあった。

自分が大学受験のために勉強できる環境で、それらは偶然の状況だと思っていた。それができない人は何人もいる。

今の時代ならいくらでも手段がある、と抜け道を見出す者は選ばれた人だと思う。

なにも注目すべき生存能力がある人だけが偉いわけではないだろうに。

無題

自己の精神を自己犠牲でズタズタに引き千切るのはばかげている。

スポーツの時運動神経を馬鹿にしてきた陰湿な女クラスメイト達に美術部の自分は美術の時間に「ドグサレ野郎共、なんで私より上手く書けないの?こんくらい描けて当然じゃね?幼稚な絵!」くらいの言葉を心の中で吐くくらいの気持ちで生きていればここまで自尊心が傷つかなくて済んだ。

「彼女らにはこんな性格になってしまった背景があるんだ」という「思いやりの心」なんて忘れれば、自分を守れたのだ。

ありふれている道徳は弱者をさらに貶め弱め反抗心を削ぐ。

(ここまで書いてみてネットで中二病と呼ばれる性質にそっくりな気もしてくるが、このネットの言葉はしばしば心の動きをはじめあらゆる事物を矮小化する性能に長けるように作られているものだ)

自分が妥協し相手に譲れば丸く収まるという自己犠牲的な考えがいつから芽生えたのかどうかを考えていて、つい思考が横道にそれてしまった。

自分に胆力が足りなければいくら人を思いやるところで何度も無力感を植え付けられる結果になるらしい。

自分を大切にできるかどうかさえ、思考の習慣ですこしづつどうにでもなってしまう。