ぼやぼやするブログ

燻りを炎に戻すために

3月18日 未来が欲しいというはなし

やはり実存は本質に先立ってしまうのかと思った。

一年半前まで無理をして築いてきた人から自分への信頼という資産を切り崩して、毎日甘えに甘えて生きてきた。だらだらと毎日を消費するだけ。淡い楽しみだけ

が自分の努力なしに知人やイベントからもたらされ、ただ素直にそれを受けとる。

 

それでも降りなければいつか社会に出て折れると考えていた。大学を出たとしても永遠に続く適合への努力から、大学を出たとしてどこで役立つかわからない知識から、一旦距離を置いた。それまでの人生のプロセスでしっかり自分自身がここにいる意味を見出すことができていなかった。それゆえ他人からの理解も、ここにいる意味を理解していない自分がいくら考えを話したって得られる理解は不十分なのだ。

瞬間瞬間に自分が持った言葉にはしづらい微細な感覚を語ろうとすることで、生きづらさは増す。あまりに長期的な視線で自分の感覚を見据え、総括することは非常に困難である。学校に居る意味も、未来への夢・目標も、その日暮らしでなんとか死なずに生きてきた私にとってはどうしてそのようなことが記述できるのかよくわからなかった。

自分には未来を見通す力が欠けている、と考えている。その力は日頃の訓練で身につくものなのだろう。しかし一度自分でそれを断ち切ってしまった。(断ち切ったとはいってもだいぶぼやけていたが)今は差し詰め推進力が分散してしまっている状態なのだろう。

 

今の腰が重く怠惰な状態はとても褒められたものではなく、前の自分が無理をしているとはいえども意外と頑張っていたというのを思い出して、少しかなしくなった。

かつて信頼を築いた先にいた人たちの顔だって、けして忘れたわけではない。

もう一度、でも少し生まれ直して、良い未来の方向に自分を進めたい。

対策を、考えないといけない。